2013/10/27

大洗磯前神社 茨城県東茨城郡大洗町磯浜町6890

酒列磯前神社 茨城県ひたちなか市磯崎町4607-2


今回の参拝コース


今回は、茨城県にある、古くからの神社を2つほど見てきました。

私が住んでいる千葉県から見て、茨城は隣の県であるものの、近いような遠いような微妙な距離にあります。

このたび茨城方面に向かった、事の発端は、東日本大震災から2年以上が過ぎ、津波の被害のあった千葉県旭市の現況が気になり、ドライブがてら旭市の様子を見に行きたいなあ、と思ったことです。 ただ、どうせなら、旭市の様子を見つつ、そのまま茨城方面へ足を伸ばしてみたいなと。 できれば、まだ行ったことがないエリアに行ってみたいなと。 贅沢を言えば、そこに神社があれば面白いなと。 そういった条件で、目的地としてふさわしかったのが、大洗だったわけです。

大洗には、大洗磯前神社という古い神社があることが分かり、そのペアとなる酒列磯前神社が近くにあることもわかりました。 また、大洗といえば、かねふくの明太子。 海産物もいろいろ買えるのではなかろうかと。

この日の目標が、その二社をお参りすることと、お土産に海産物を買って帰ることにしぼられました。

当日、いい秋晴れでした。 とりあえずは予定通り、千葉県旭市の復興を見届けて、安心しました。 ガレキはすっかりなくなっていて、サーファーの集まる砂浜に戻っていました。 とりあえずは一安心です。

そして、茨城に入り、軽く鹿島神宮に寄りました。 そのあと、2時間ちょっとで、大洗磯前神社に着きました。

最近、地方の町おこしにアニメが利用されることがありますが、大洗では最近どうやら「ガールズ&パンツァー」というアニメ(ガルパンと言うらしい)が、大洗が舞台だということで、盛り上がっているようでした。 かわいい女の子キャラが、第二次世界大戦中の戦車を乗り回すという、萌えなんだかミリタリーなんだか、よくわからないオタクアニメのようでした。

大洗磯前神社の絵馬には、そのガルパンのキャラと思われるイラストが描かれたものが、たくさんぶらさがっていました。 話によると、茨城空港のロビーにも、アニメキャラの等身大POPや、ポスターが並んでいるそうです。 茨城県をあげてPRするほどのものなのか、私にはわかりませんが、せっかくなので行けるところまで突っ走ってほしいものです。

大洗磯崎神社の印象は、山の上にあるなぁ、摂社末社が多いなあ、海の中に立つ鳥居がかっこいいなあ、といった感じでした。 歴史は古いものの、社殿や鳥居などは真新しさを感じました。

そのあと、酒列磯前神社に行きました。 派手さはなく、村の鎮守といった感じの小さな神社です。 GoogleMapにも載っていないような地味な神社ですが、歴史は古いようです。

「酒列」を「さかつら」とは初見で読める人はいないのではないでしょうか。 「磯前」を「いそさき」ともなかなか読めませんが。

酒列磯前神社は、住宅地の中にポツンとありますが、その神社からすぐ近くが切り立った崖になっていて、そのすぐ下は海になっています。 ある意味、崖の上にある神社という感じで、大洗磯前神社と同様に、太古からたびたびあった地震や津波などで被害に遭わないように、高い崖の上に社殿を造ったものと思われます。

酒列磯前神社をひと通り見終わった頃には、かなり薄暗くなってきていました。

帰りに、那珂湊漁港に立ち寄ってみました。 大洗漁港にも、マリンタワー、水族館、科学館、アウトレットなど、いろんな施設がありますが、那珂湊はその大洗のすぐ北にあります。

お魚屋さんが10店も20店も並んでいる魚市場エリアがあり、とてもにぎやかでした。 そこに回転寿司もあったので、晩飯がてら寿司をつまみました。 お土産に、あん肝と明太子を買って、のんびり帰ってきました。

道はすいているのに、家まで5時間くらいかかり、茨城って遠いなあ、と思いました。


神社コメント


大己貴命・少彦名命のペアで祀られている神社は、全国に多くあります。 大洗磯前神社と酒列磯前神社もそのうちの一つですが、大洗のほうは主祭神が大己貴命、酒列のほうは主祭神が少彦名命と、それぞれ主祭神が分かれているところがポイントです。

この二社の由縁は、「日本文徳天皇実録」に描かれています。

========================= 856年、常陸国の鹿嶋郡の大洗磯前に、新しい神が現れました。

ある日の夜、海水を煮て塩を作っていた製塩業の人が、海のほうでなにか光るものを見ました。

次の日にその場所に行ってみると、怪しい石が2つありました。 どちらも一尺(約30cm)ほどの大きさでした。

さらに次の日には、20個あまりの小さな石が、その2つの石を囲うようにして現れていました。 その怪しい2つの石は、彩色が派手で、僧侶のような姿をしていました。

そうしていたら、その石に宿っていた神が、ある人に憑依し、その人の身体を借りて言いました。 「私は大奈母知、少比古奈命である。昔、この国を造り終えて、一度は東の海に去ったが、今再び人々を救うために、ここに帰ってきたのだ」

その後、大己貴命は大洗に、少彦名命は酒列に、それぞれ祀られることとなりました。 =========================

当時の茨城地方も、地震が多く発生していたそうです。 鹿島神宮や香取神宮に、要石(ナマズ石)があるのも、地震を抑えるためのものです。

そういった地震で混乱していた人々を救うために、大己貴命と少彦名命は光臨した、というわけです。

●大洗磯前神社について 創建は856年、平安時代から常陸国の代表的な神社として名前をつらねていました。 戦国時代には、戦乱で荒れてしまいましたが、江戸時代に徳川光圀(水戸黄門)により再建されました。 今残る社殿は、そのときのものです。

●大己貴命について 大己貴命は、大国主命とも、大物主神とも、大國魂神とも呼ばれる、島根県の出雲の神様です。 何個も別名があるため、大名持とも呼ばれます。 七福神の大黒天ともされています。 以下は、大国主という名前でお話しします。

古事記では、イザナギが禊をして生まれた三貴子(天照大神、月読命、スサノオ)の、スサノオの六世の孫であると書かれています。 日本書紀では、スサノオの七世の孫とも、スサノオの息子とも書かれています。

大国主は、スサノオが見つけた出雲の地を、立派な国にするために、国造りを始めます。 そのときに大国主を手伝ったのが、少彦名命です。

見事に出雲の国造りを果たしたあと、少彦名命は帰ってしまいますが、大国主は出雲で頑張って国造りを続けます。

すごいのはそのあとに、高天原という天界から、地上を見下ろしていた天照大神が、「あの国が欲しい」と言って、国譲りを迫ったことです。

国造りの苦労を散々させておきながら、オイシイところを持っていってしまうというこの話。 権威とはかくあるべし、といったところでしょうか。

国譲りにおいては、出雲の陣営側もそれなりの反応を示しました。

大国主は、国を譲れと迫られると、2人の息子がいるからそっちに聞いてくれ、と言いました。 大国主の長男である事代主(ことしろぬし)は、「ぼくは別に譲ってもいいと思うよ」と言い、海にドボンと消えました。 一方で、次男の建御名方神(たけみなかた)は、「んなもん、認められるわけねえじゃん」と、天照大神が派遣した武甕槌命(たけみかづち)に、相撲で対決を挑みました。 しかし、まんまと負けて、長野県の諏訪地方まで逃げることになりました。

息子2人が服従したのを見て、大国主は、「わかった。国を譲ろう。ただし、出雲に大きなお社を建ててくれることを約束してほしい」と言いました。 そして天照大神はこれを承諾、大国主は引退をしました。 こうして、国譲りがされたのです。

引退とは言うものの、実際のところは、出雲軍が天照軍と争い、大国主は殺されてしまった、または追い詰められて自殺したものと考えられます。

記紀では、物語全体が天照系に配慮されているので、「国を譲ってくれた」という穏便な表現になっています。 しかし、わざわざ大きな神社を建てて、大国主を丁重にお祀りし、何百年にも渡って皇族が出雲に参拝を欠かさなかったのは、大国主のたたりを恐れ、怒りを鎮める必要があったからでしょう。

●酒列磯前神社について 「酒列」(さかつら)は、元は「逆列」だったそうです。

酒列磯前神社のある近くの海岸には、たくさんの岩石が並んでいます。 その岩石のほとんどが、南に向かって45度の向きに並んでいますが、一部分だけ北に向いている部分がありました。 その場所を「逆列」と呼びました。 逆さ(さかさ)の向きに、岩が列なって(つらなって)いるから、逆列ですね。

その「逆列」という地名から、「酒列」という神社の名前になったそうです。 変わった理由は、酒列磯前神社の祭神である少彦名命がお酒の神様だったので、逆が酒に変わったのだそうです。

●少彦名命について 少彦名命は、大国主命とペアで登場するわりに、あまり主祭神の扱いをされることはありません。 その点で、酒列磯前神社は珍しい存在です。

少彦名命は、一寸法師のモデルにもなっている、とても小さい姿をした神様です。 少彦名は、七福神のえびすさまと同一視されることもあります。

古事記での登場シーンです。 大国主が出雲の海をながめていると、海のかなたから、蛾の皮の服を着た小さな神様が、天の羅摩船(あめの かがみの ふね)に乗って現れました。

大国主が名前を尋ねますが、何も答えません。 そこにヒキガエルの多邇具久(たにぐく)が現れて、「久延毘古(くえびこ)なら知ってると思いますよ」と言いました。 そこで、久延毘古に聞いてみると、「その神は、神産巣日神(かみ むすびの かみ)の子供の、少名毘古那神ですよ」と教えてくれました。

神産巣日神に聞いてみると、「ああ、そんな子供もいたね」と、少彦名命が自分の子供であることを認め、「大国主と協力して、国造りをしなさい」と命令しました。 こうして、大国主命と少彦名命は、協力して、国を整えました。

国造りが終わると、少彦名命は、常世の国というところに去っていってしまいます。

この登場のしかたと、去りかたについては、どういう意味があるのでしょう。

・どこからともなくやってきて、いつのまにか死んでいた ・大国主と少彦名は一心同体であり、国造りが終わって、自然消滅した ・中国、朝鮮半島から船でやってきて、出雲を整備したあと、本国へ帰った渡来人だった このような説があります。

少彦名という名前については、 ・実在した名前だった ・大己貴の「おおな」と対比した「すくな」という名前をつけただけ といった説があります。

また、少彦名命の親神は、古事記と日本書紀で異なります。 古事記では、神皇産霊神の子とされていますが、日本書紀では高皇産霊神(たかみ むすびの かみ)の子となっています。

このあたりの書き分けは、意味があるのか、単に分けただけなのか、適当なのかはよくわかりません。

●少彦名と神農さま 少彦名命とよく似た神様に、「神農」さまがいます。 神農さまは、古代中国の伝承にある三皇五帝の一人で、医薬の神様です。

少彦名命にも医薬の神様という性質があり、少彦名神社に神農さまも一緒に祀られているケースがあります。 現在でも「神農祭り」というお祭りが続いている少彦名神社があります。

余談ですが、この神農さまを「神農皇帝」として信仰しているのが、お祭りの屋台を出している人たち、すなわちテキ屋さんです。 テキ屋さんが神農さまを信仰するようになったのは、江戸時代の頃です。 当時、出店の屋台で漢方薬を売ったり、歯の治療をしたりしていたことから、そのルーツである神農様を守護神として祀ったのだそうです。

この二人の神様は、ただ似ているだけなのか、元々同一の神様なのかは、もう少し調べないとわかりません。

●少彦名と天神さま さらに、少彦名命は昔、「天神さま」とも呼ばれていたという説があります。

天神様といえば、学問の神様、菅原道真公じゃなかったっけ? と言われれば、まさにそのとおりです。

しかし、菅原道真が活躍していたのは、平安時代(860~900年ごろ)です。 そのあとできた、太宰府天満宮の創建が919年、京都の北野天満宮が947年です。

天神様や天満宮などと呼ばれる神社は、全国では1万社あると言われます。 稲荷、八幡、伊勢に次ぐ、4番目に多い神社です。 それほど多い神社が、菅原道真だけの力で広まったとは考えにくいことです。

すなわち、菅原道真の時代よりも昔から、天神さまと呼ばれた神社が存在し、そこには少彦名命(または別の神様)が祀られていた可能性があるわけです。

今でも、布多天神社など、菅原道真と少彦名命を一緒に祀っている神社があります。 また、京都の五條天神宮は、少彦名だけがいて、菅原道真がいないという、珍しい神社です。

現在の天神さまは、ほぼすべてが菅原道真公が祭神となっています。 もし、神社の祭神に変更があったのならば、あまり望ましいことではありません。 なぜ天神さまの祭神が、少彦名命から菅原道真に塗り変えられてしまったのでしょうか。

こちらの説は、まだ情報が少なく、確証を持つところまでは行っていません。 ただ、少彦名の神が天照系に出雲の国を乗っ取られてしまった恨みと、菅原道真が京都から九州に左遷されてしまった恨み、そういった「たたり神」としての共通点はあるかもしれません。

また、それとは別に、九州地方に少彦名を祀る神社が多く存在していた可能性はあります。 九州は、中国や朝鮮との交易により、伝染病が入ってきやすい地域でした。 その疫病を収めるために、医薬の神様である少彦名(ないし神農さま)を、九州各地で祀ったのではないかと推測します。

もし、太宰府天満宮の祭神が元々は少彦名で、菅原道真が左遷されてきたあとに祭神が変わったのであれば、現在の天神さまの祭神が菅原道真に一気に変更された説明がつくかもしれません。 太宰府天満宮にはまだ行ったことがないので、ぜひ行ってみたいものです。

●大洗・酒列に、なぜ出雲系の神様が祀られているのか 大国主命と少彦名命は、明らかに出雲の国の神様なのに、茨城とどんな関係があるのでしょうか。

昔の人というと、それほど移動をせず、同じ場所で住み続けるイメージがあるかもしれません。 しかし実際は、結構日本各地を移動していて、出雲から茨城まで出てくることは、そう珍しいことでもなかったようです。

大和民族が、九州ないし近畿地方で国の統一を果たす中、立場を追われた出雲民族は、東に勢力を広げていきました。 それは甲信越の山の中を通って、山梨から関東に抜けるルート、東海道を行くルートなどがあったでしょう。 それと同時に、当時関東に住んでいた縄文系の人たちは、徐々に東北のほうに追いやられてしまいます。

そんな感じで、茨城にたどり着いた出雲民族が、「神が現れてこの地を救いに来たのだ」と言いつつ、結局はこの地に住む先住民を追い出して、開拓しにきたわけです。

関東地域の古い豪族である武蔵国の国造は、出雲系と言われています。 氷川神社でも大国主を祀っていて、「氷川」は出雲の斐伊川に通じます。 鹿島神宮、香取神宮のあたりも出雲系が多いですね。

茨城の豪族といえば、中臣氏(藤原氏)がいますが、おそらくは出雲系です。 ただ、天皇とくっついて政治の権力を握るには、出雲系では都合が悪いでしょう。

あくまでも個人の推測ですが、ホントはタケミナカタもタケミカヅチも、国を追われて関東に来た出雲系なのに、タケミカヅチだけ天孫系に変更してしまったのではないか。 そして中臣氏のルーツを、タケミカヅチに仕立て上げることで、出雲系であることを隠したのではないかと考えます。 今のところまったく根拠はありませんが・・・。


神社情報


●大洗磯前神社(おおあらい いそさき じんじゃ)  茨城県東茨城郡大洗町磯浜町6890

<ご祭神> ・主祭神:大己貴命(おおなむちの みこと)  大国主とも、出雲の国造りをした神

・配祀神:少彦名命(すくな ひこなの みこと)  大己貴命の国造りを手伝った神  酒列磯前神社の祭神

<ご利益・お祭り>  式内社 名神大社 旧国幣中社 別表神社  八朔祭(8/25)

<摂社・末社> ・大神宮(天照皇大神、伊勢神宮の分社) ・静神社(建葉槌命/手力雄命/高皇産霊尊/思兼神、常陸国二宮「静神社」の分社) ・水天宮(天御中主神/安徳天皇/建礼門院/二位尼、福岡県「水天宮」の分社) ・大杉神社(大物主命、茨城県「大杉神社」の分社) ・水神社(罔象女命) ・八幡宮(応神天皇/大帯姫命/玉依比売命) ・御嶽神社(国常立命/大己貴命/少比古名命) ・清良神社(小幡宥円、御霊信仰の神社) ・烏帽子厳社(烏帽子厳神) ・茶釜稲荷神社(倉稲魂命)  ・櫛形山神社  ・大甕磯神社 ・與利幾神社(建御名方命)  ・石尊宮(神奈川県「大山阿夫利神社」の分社)

●酒列磯前神社(さかつら いそさき じんじゃ) 茨城県ひたちなか市磯崎町4607-2

<ご祭神> ・主祭神:少彦名命(すくな ひこなの みこと)  大己貴命の国造りを手伝った神

・配祀神:大名持命(おおなもちの みこと)  大国主とも、出雲の国造りをした神  大洗磯前神社の祭神

<ご利益・お祭り>  式内社 名神大社 旧官幣中社 別表神社  医薬の神、温泉の神、おまじないの神、知識の神、お酒の神

<摂社・末社> ・酒列鎮霊社(日露戦争~第二次世界大戦の戦没者) ・稲荷神社(倉稲魂命) ・天満宮(菅原道真) ・事比羅神社(大物主命) ・冨士神社(木花咲耶媛命、子安神) ・水神社(罔象女命)


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Last-modified: 2017-10-07 (土) 08:55:28 (2390d)