●●神社

かわぐち あさま じんじゃ

河口浅間神社は、山梨県富士河口湖町にある神社です。富士五湖のひとつ、河口湖の近くにある浅間神社です。

ポイント
・864年に富士山の噴火があり、それを鎮めるために浅間大神を祀ったのがはじまり
・世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部になっている
・●●

データ

神社

祭神浅間大神(木花咲耶姫命)創建平安時代 865年(貞観7年)
系統浅間系社格式内社、名神大社論社、旧県社
ご利益●●


鎮座

エリア山梨県●●エリア電話000-000-0000
住所山梨県南都留郡富士河口湖町河口1


交通手段

電車●●線●●駅バス●●交通 ●●行き
高速●●高速 ●●IC自転車未調査
アクセス●●


現地

施設確認中必要時間確認中
名物●●見どころ●●


関連サイト
ウィキペディア 河口浅間神社
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訪問履歴
・2016年



見どころ

拝殿 現在の本殿は、慶長11年(1606年)の焼失により、翌慶長12年(1607年)に領主・鳥居成次が再建したものという。一間社流造で、唐破風付の向拝を備える。昭和40年(1965年)に解体修理が施された。富士河口湖町指定有形文化財に指定されている。

また、拝殿前には「美麗石(ヒイラ石)」と呼ばれる石祠が立つ。これは『日本三代実録』にいう、浅間明神を初めて祀った古代祭祀の石閣と伝わる。

天然記念物 社殿周辺には「七本杉」と呼ばれる7本のスギの神木が立つ。これらはいずれも樹齢1,200年を数え、山梨県指定天然記念物に指定されている。七本杉には、それぞれ「御爾(みしるし)」「産射(うぶや)」「齢鶴(れいかく)」「神綿(しんめん)」「父母(かづいろ)」「天壌(てんじょう)」の名が付けられている(「父母」は2本で1つの名)。

また参道の杉並木のほか、栃の木、樅の木は、それぞれ富士河口湖町指定天然記念物に指定されている。

「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されている。

神社・祭神について

「河口浅間神社」という社名は、他の浅間神社と区別するための通称で、正式名は「浅間神社」といいます。富士山の北側の麓に位置し、祭神様は河口湖越しに富士山を見つめています。

祭神である浅間大神 (あさま おおかみ)は、他の浅間神社と同じく、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を指しているとのこと。

社記によると、天津彦彦火瓊瓊杵尊(木花開耶姫命の夫神)、大山祇神(木花開耶姫命の父神)の両神を相殿に祀っているという伝えもあります。

摂社・末社・祭り・文化財

例祭
4月25日(孫見祭)
神事
筒粥祭 (1月14日)
身曽岐流し(7月31日)
献穀祭 (11月23日)

歴史

創建
当社は貞観6年(864年)に始まった富士山の噴火鎮祭のため、貞観7年(865年)に浅間神を奉斎したのが始まりという。

『日本三代実録』によると、貞観6年(864年)に富士山の貞観大噴火が始まって大被害が発生し、噴火により八代郡の本栖海(本栖湖)と剗の海が埋没したという。そしてこれが駿河国浅間名神(現 富士山本宮浅間大社)の祭祀怠慢とされ、甲斐国でも浅間神を祭祀するべきこととなった。翌貞観7年(865年)、甲斐国八代郡家の南に浅間明神の祠が祀られ官社に列したと記す。また、平安時代中期の『延喜式神名帳』には名神大社として「甲斐国八代郡 浅間神社」の記載がある。

これらの記載に対して、江戸時代の『大日本史』や『甲斐国志』などにより、古くから当社がその論社として論じられてきた。その中で当地は現在都留郡であるが、当時は八代郡に属したと論じられている。ただし、もう1つの有力な論社として笛吹市の浅間神社もある(議論の詳細は「浅間神社#甲斐国」を参照)。

概史 当社を中心とする地域は、富士登拝の大衆化と共に御師集落として発展した。しかし江戸時代になると、富士講の流行や吉田御師の発展により徐々に衰退していき、19世紀には衰退の一途を辿った。

近代社格制度では、明治4年(1871年)に郷社に列し、大正13年(1924年)に県社に昇格した。

戦後の1949年(昭和24年)4月25日には民俗学者の柳田国男が訪問する。柳田は当時、山宮と里宮の関係を研究しており、河口湖町出身の中村星湖に案内され当社の山宮や孫見祭を見物した。

写真

その他

参考サイト/文献




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