聖徳太子の功績

歴史・神社
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昔、歴史の授業で、聖徳太子のことを習いました。

聖徳太子のことを、今の学校では「厩戸皇子(聖徳太子)」と教えているそうです。厩戸皇子という人は実在したが、聖徳太子という人は架空の人物である、というわけです。

実在しない架空の人物、ということは、なんとなく耳にしていたのですが、「なぜその架空の人物を作る必要があったの?」というところは、あまり考えていませんでした。

最近、興味深い説を見かけましたので、ご紹介します。


その話をするには、若干、飛鳥時代の歴史のお話が必要になります。

登場人物としては、聖徳太子、厩戸皇子、蘇我氏(蘇我馬子・入鹿)、天智天皇(中大兄皇子)、中臣鎌足(藤原鎌足)、天武天皇(大海人皇子)、弘文天皇(大友皇子)、持統天皇などが出てきます。

聖徳太子は、飛鳥時代、推古天皇の代に、蘇我氏の蘇我馬子と協力しながら政治を行ったとされる人物です。遣隋使の派遣、十七条の憲法、冠位十二階などを制定しました。また、生まれてすぐ言葉をしゃべった、10人の人から話しかけられて、それぞれに的確に回答したなど、聡明で能力が高い印象があります。日本のお札の顔にもなっていますね。

飛鳥時代、豪族の蘇我氏は、政治の中心にいました。武内宿禰を祖として、馬子、蝦夷、入鹿と代が続きましたが、権力を握った全盛期は、調子に乗って、天皇をないがしろにして勝手な政治を行っていました。

そのひどいふるまいを見過ごせなくなり、中大兄皇子と中臣鎌足はクーデターを起こします。蘇我入鹿の暗殺(乙巳の変)を皮切りに、蘇我氏は滅ぼされ、天皇中心の政治に戻ります(大化の改新)。

そして、中大兄皇子は、天智天皇として即位します。天智天皇の弟には、大海人皇子がいます。

天智天皇は、当初、弟の大海人皇子を次の天皇とすると明言していました。しかし、天智天皇に子どもが生まれると(大友皇子)、自分の子どもを天皇にしたい気持ちが強くなりました。

天智天皇が病に倒れたとき、病床に大海人皇子が呼ばれます。天智天皇が「次の天皇は大海人皇子にしようと思う」と告げると、「私は天皇につくつもりはありません。お子の大友皇子を天皇に」と言い、大海人皇子は出家し、吉野に隠れました。天皇の座を争う身として害されるのを避けるためです。

天智天皇が崩御すると、予定通り大友皇子が弘文天皇となりますが、弘文天皇は大海人皇子の存在を恐れ、弘文天皇側から大海人皇子を攻撃しました。それをきっかけに全面対決に発展(壬申の乱)。結果は大海人皇子が勝利し、弘文天皇は自害に追いやられました。

大海人皇子は天武天皇として即位します。天武天皇の妻は、後の持統天皇で、天智天皇の娘です。

天武天皇は、日本の歴史を残すため、古事記・日本書紀を作る指示を出しました。古事記は712年、日本書紀は720年に完成しています。古事記には33代推古天皇まで、日本書紀には41代持統天皇までの歴史が書かれています。


・・・と、おおまかに説明するとこんな感じです(間違ってたらすみません)。

で、キーマンとなるのは、日本書紀を作ることを命じた天武天皇です。日本書紀は、天武天皇が作るのを命じたので、最初は天武天皇の意向に沿った内容で書かれていました。

天武天皇は、天智天皇→弘文天皇の系統から政権を奪ったかたちになります。それを正当化するには、天智天皇の行いを否定し、天武天皇が取って代わらなければいけなかったことを主張しなければなりません。

天智天皇がやったことといえば、乙巳の変(大化の改新)です。クーデターを起こし、蘇我氏を滅ぼしました。天皇に仕えていた豪族を、気に食わないから殺した。その首謀者が天智天皇であり、ワルいやつだ、というわけです。

また壬申の乱についても、弘文天皇側から先に攻撃されて、やむなく戦わざるを得なかった、としました。ただ実際は、大海人皇子(天武天皇)のほうから先に手を出したと言われています。


その後、天武天皇が崩御しました。天武天皇の子は、すぐに亡くなり、天皇につくことはできませんでした。天武天皇の次には、持統天皇か即位しました。天武天皇の妻(皇后)です。

新たにキーマンになったのが、この持統天皇です。持統天皇は、天智天皇の娘でもあります。

持統天皇が即位すると、父親である天智天皇寄りの意向が強くなります。持統天皇の指示も入りながら、日本書紀は作られていきました。

天智天皇が蘇我入鹿を暗殺した乙巳の変については、都合が悪いからといって、全部もみ消すことはできません。なので、そうする必要があった、と主張する必要がありました。

クーデターを正当化するには、やっつける相手が、相当なワルである必要がありました。蘇我氏はすごいワルだった。だからクーデターでやっつけられてもしかたがなかった。ワルをやっつけた天智天皇は、正義のヒーローだ。そういうかたちに持っていったわけです。


持統天皇の意向により、蘇我氏はワルとして描かれました。しかし、本当に蘇我氏はそんなにワルだったのでしょうか?

実は、蘇我氏は単なるワルではなく、政治的な手腕も高かった人物だったというのです。あの聖徳太子の功績である、遣隋使の派遣、十七条の憲法、冠位十二階は、実は蘇我氏がやったことだというのです。

日本書紀を作るのにあたり、天智天皇の娘である持統天皇は、歴史上の出来事はそのままに、蘇我氏を生粋のワルにする必要がありました。そのために、聖徳太子という架空の人格を作り出し(厩戸皇子に転嫁し)、蘇我氏が政治的に貢献した部分は、聖徳太子の手柄にしたのです。


この説が正しければ、蘇我氏がヒドいくらい悪者扱いで、聖徳太子が奇妙なくらい聖人君子のように素晴らしい人間という、両極端であることにも納得できます。

蘇我氏はある程度の強引さはあったかもしれませんが、結局は気に食わないと思ってライバルに目をつけられただけで、そこまではワルではなかったのかもしれません。

子どもの頃からの知識で、蘇我氏と聞くとなんとなく悪いイメージがありましたが、この説からすれば、聖徳太子にも匹敵する優れた能力を持った豪族だった可能性が出てきます。見方が180度変わる説です。

今後も研究が進むと、いろいろと今までとは違う説が出てくるかもしれませんが、なかなか面白い説ですよね。


千葉の地元に、蘇我という地名があります。ヤマトタケルの「我、蘇り」というセリフから来たという説と、蘇我氏の末裔が千葉までやってきたという説があります。

蘇我には、蘇我氏の末裔、蘇我姫を祀った式内社「蘇我ヒメ神社」があります。先ほどの後者の説を取っています。

今度、蘇我ヒメ神社にお参りにいったときは、「今までで蘇我氏のお父さん、おじいちゃんたちのことをワルだと思っててごめんなさい」と謝ってこようかと思います(笑

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